in 未分類

瞑想で冬至を迎えました。

コロナ禍にあり、2020年は世界が混乱してしまいましたが、冬至の朝は清々しく瞑想をしました。自分にとって瞑想とは、ビヨンドディスクリプション、言葉で言い尽くせない、言葉を超えたものである。体験する以外になくて、説明することはそのやり方くらいのものです。

私は20代後半から朝の瞑想を体験しました。1人で行えるようになるまで経験の豊かな指導者や仲間と一緒にすることが大事でした。当初は方法を教わりながら指導を受けましたが、ある程度、経験してからは朝に1人でも出来るようになりました。

その後、毎日というわけにはいきませんでしたが、継続してきました。おかげでその恩寵を授かっていると思えるのは、自我のせいでしょうか?

体験がなければ意味はない。頭で知り得た知識は借り物に過ぎない。インターネットの情報だけで体験したようになるのはおかしい。人は気をつけないと自我意識の虜になりえる。そこから抜けるのも容易ではない。なぜなら自分がいる所を知らないからだ。唯一、瞑想だけがチャンスを与えてくれる。

瞑想をあまりよく知らない人は安心してほしい。なぜならそれは知識でもない。知らなくていい。知っていることなど瞑想的ではないし、新しくもない。瞑想する朝は、毎日が新しい。もしかしたら感覚的には分厚い内容の濃い神秘的な長編小説を読み終えた時に本を閉じた瞬間にやってくる空気のようかもしれない。味わい深い呼吸を出来るだけ長く継続することと、少し違うことは、読書でもなく、瞑想で自然に自分の内側に入り込むことなのかな。

Write a Comment

Comment

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください